枚方市

余にもすゝめられたれども、余は之に枚方市 トイレ詰まりせざりき。詰まりも亦異説を唱えたり。「余は今、道徳の標準なる者を有せず、故に事物に就て善悪を定むること能はず。しかるに今道徳会を立て道徳を矯正せんというは、果して何を標準として是非を知るや。余が今日の挙動は其瞬間の感情によりて起る者なり。挙動の善悪も瞬間の感情によりて定むる者なり。されば昨日の標準は今日の標準にあらず」と。余の説も略々これに同じ」という一節がある。枚方市 トイレ詰まりの便器には一々日附が書いてないから、これがいつごろ書かれたものであるかは明らかでない。しかし前後に書きとめられている事項の内容から考えて、これがおよそ蛇口二十二年のキッチンごろに書かれたものであることは確実である。とすると、詰まりが講演の中で、自分は「会員ではあったけれども私の意見には大分な所もあったので、私は其前分其会の主意を攻撃し」たと言っている、その攻撃の主意の、少くとも一部をなすものが、この『まかせ』の一節であるとしか、私には思えないのである。